『かなりや荘浪漫 廃園の鳥たち』村山早紀 読了
今日は先日の分と入れ替わってしまった『かなりや荘浪漫 廃園の鳥たち』です。
この本は元々、集英社オレンジ文庫さんから販売されていたものをPHP文芸文庫さんから再出版されたものです。
僕も前に出版されていた方を持っていましたが、げみさんの素敵なイラストの表紙に変わったことと、番外編も収録されていましたので、新たに購入し直しました。
好きな作家さんの本だと、新装版とか出ちゃうと買いたくなってしまいますよね。
かなりや荘浪漫とは。
母子二人で懸命に生きてきた主人公・茜音。
しかし、ある出来事のせいで自分の住処をなくしてしまった。
困り果てた茜音が辿り着いたのは『かなりや荘』という古い洋館アパートだった。
そのアパートに住んでいる暖かい人々と交流していくうちに、茜音は大きな決意をすることとなった。
この物語の中に登場する表現で1番好きなのは、『かなりや荘に集まってくる人々は小鳥のようだ』という表現です。
大空に羽ばたいたのはいいものの、その羽を休めることは出来ず、疲れてしまった人々が体を寄せあって休める大木のような場所。
かなりや荘の主人・マダムは、そんな人々を暖かく迎え入れる。
今の現代社会では、こんな風に休める場所はない、と思います。
現実にも羽休めが出来る大木があればいいのに、と思うのですが、実際その大木と言うのがこういった暖かい物語なのだと僕は思います。
あくまで僕個人の意見ですが、心温まる物語を読むと、心が疲れていても、じわじわと暖かくなってきて、自分の事ではありませんが、自分の事のように幸せに感じることがあります。
僕の本を読む、という行為には現実逃避が含まれていますが、村山早紀先生の作品は、どっちかっていうと物語を消費する的な意味で読んでいるような気がします。
その物語を消費して幸せな気持ちにさせてくれるのだから、読書というものはやめられないのです。
この物語では、漫画もとい絵といった形で芸術が出てきますが、芸術を1つのモチーフとして描いている作品って、芸術分野のどれでも置き換えることが出来るんですよね。
この文章を書いている今(3月21日現在)、本屋大賞ノミネート作品の一つ、『線は、僕を描く』を読了しています。
詳しい感想は後程書くのですが、この2つの作品を通して、何となく不明瞭だった『芸術』とは一体なんなのか、ということの端っこの部分だけ見えたような気がするのです。
他にも『遺跡発掘師は笑わない 縄文のニケ』という作品で『土偶』において、岡本太郎先生の有名な言葉『芸術は爆発だ』というくだりが出てきて、そこでも『芸術とは』と考えていました。
自分の中で『芸術』というものの何たるかを掴めそうなのですが、自分の手をすり抜けて言って、中々言葉で表現するのが難しいのです。
本当だったらこの後に続けてでも『線は、僕を描く』の感想を書きたいのですが、じっくりと考えたいので、言葉として紡げるのはもう少し先になりそうです。
芸術に携わったことの無い人からしてみれば、なんでそこまで芸術というものに肩入れするのか?と疑問に思われるかもしれませんが、まあ理由は簡単です、僕が結構芸術に携わる人生を歩んできたからです。
とは言いますが、技術だったり実力としては中の下です。
なのになぜ芸術をやるのか?という議題についてはまた次の機会にでもお話しましょう。
なんだか長くなってしまった上に、論点ズレてるっていうのは自覚しているのですが、実はこれ、僕が書きたいことのまだまだ序章にあたる部分なんです。
おそらくこの先も、はっきり答えがわかることはないような気がしますが、どこかで一度区切りをつけたいですね。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございます。
さてさて、明日からは再びシリーズものに戻ります。
前にも書いたような気がしますが、シリーズものを連続で書いてしまうと、僕が飽きちゃうような気がするので間を空けて投稿しています。
ですが『十二国記』や『守り人』シリーズは大河なので連続で投稿することになると思います。まだまだ先の話ですが。
ではまた明日お会いしましょう。