怜士の本棚

不定期に読んだ本の記録や、感想を載せていきます。ファンタジーやミステリー系が多いです。たまに、日記のようなものを書きます。

『紅蓮館の殺人 阿津川辰海』読了

※本文にはっきりと真相は書いていませんが、核心に迫る事実を書いております。気になる方は、ブラウザバック推奨です。

 

 

 

f:id:missokinoko:20200827204228j:image

 

本作品はタイトルから推測できるように、綾辻行人先生の『十角館の殺人』の系譜にあたる作品だ。所謂クローズドサークルもので、かつ殺人事件の起こる舞台となるのが、何かしらの謂れがある館だ。

正直に白状すると、まだ駆け出しのミステリファンである僕が、この日本で一大ジャンルを誇っている館ものを語るのには少々おこがましいと自覚しているが、この作品の魅力を語るために目を瞑っていただきたい。

 

さて、この作品の魅力であるが、勿論評価されている本格ミステリという点が挙げられるが、その謎の掲示と解決に付け加え、探偵としての「生き方」が描かれているという点が挙げられる。

これはあくまで僕の持論の話だが、世の中に「名探偵」として名を挙げている人物には、必ず「信念」というものを持っている。例として最近よく読んでいる作品の探偵として、有栖川有栖作品より火村英生を挙げる。彼が探偵として真相を暴く理由は、「人を殺したいと思ったことがあるから」である。

前後の文で文章が成り立っていないように見えるが、何も間違ってはいない。彼の信念はこれなのである。しかし、彼はそれ以上のことは語らない。火村英生シリーズでは、作品の語り手かつワトスン役として、作者と同名の有栖川有栖という探偵作家が登場する。彼の推測を借りてこの信念を補強すると、自分は人を殺したいと思ったがその崖から引き返したのに対し、実際に人を殺してしまった犯人が許せないから、真相を暴くのではなかろうか、と言われている。

正直なところ、現状では「人を殺したいと思った」のそれ以上は本人の口から語られることはなく、語り手の推測のみだが、今回重要な点はそこではない。探偵が信念を持って真相を暴いているという点である。

随分と前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。『紅蓮館の殺人』では探偵役が葛城、ワトスン役兼語り手が田所というどちらも男子高校生だ。この中で、最も重要だと思っている設定が「高校生」であるという点だ。

大抵の推理小説では、探偵役というものは、純粋に探偵業を営んでいるものもいるが、本来の職業が大学准教授や占い師、書店員や職業ではないが現役大学生という場合がほとんどである。だが、これらに共通して言えることは、成人していること、自分の「生き方」を確定させた上での探偵行為を行っていることである。

しかし、今回の探偵役・葛城は高校生であり、おまけにまだ進路を考え始めたばかりの高校二年生である。彼の探偵能力というのは、生まれついた環境で生き抜いていくために自然と身についてしまったものではあるが、それはあくまで方法であり、生きるための方針ではない。探偵能力は生き抜くための術であり、それは探偵として生きるという方針ではないのだ。

彼には真相を見抜く能力はあるが、問題がそれを公表するのか否かというところにある。これは僕の推測ではあるが、彼が真相を公表するのはワトスン役・田所がいるからではなかろうか。

この作品の締めくくりで、葛城はある人と対峙する。それは田所の憧れの人間であり、この事件の重要人物である。その事実から遠慮したのか、葛城は成立しない推理を披露した。田所がかつて憧れた名探偵は、助手の期待を裏切った、私と変わらないと葛城に告げる。

ここで信念の話に戻るが、彼にとって探偵をする信念とはなんだったのだろうか。これは推測でしかないが、彼の信念は、ただ田所の期待に応えるという弱い信念ではなかったのだろうか。真相を暴くことは田所の期待に応えることになるが、それと同時にかつて憧れた名探偵に失望する真相に繋がってくるのだ。そう考えた葛城は、わざと成立しない推理を披露した。そうすれば田所は名探偵に失望しないで済むと彼が考えたからであろう。

しかしその行為は、探偵として褒められたものでは無いというのは推理小説好きの皆様ならお分かりいただけるだろう。名探偵とは、いついかなる時も真相を暴くもの、真実を曲げることなどあってはならないのだ。これは探偵としての「生き方」とは到底呼ぶことはできない。

その事実突きつけられた葛城は最後に言った、「僕には、謎を解くことしか、出来ないんです」。これは彼の叫びだ。探偵として生きようとしたものの、その資格がないと突きつけられた彼の叫び。探偵としての信念が弱い、探偵として生きるには信念が弱すぎる、けれども彼には真実を見抜く能力がある、それ故に探偵として生きるしかないのだ。

ここで彼らが「高校生」であるという話に戻る。専門の学科に通っている高校生はある程度自分の進路、つまり「生き方」というものがある程度定まっているものだが、進学校に通う彼らにとっては、進路というのは大学に進学する時に決めるものであろう。まだ「生き方」というのが定まっていないのだ。

長々と書いてしまったが、この作品は本格ミステリであると同時に、探偵の少年の青さを描いた作品である。自分の行先を決める術はあるが、そちらに歩いていくには心が追いついていない。この作品では「探偵」とされているが、将来という壁にぶち当たった高校生誰もが抱える問題を、本格ミステリとして描き出している。そして、探偵が真実を見抜くために持っている信念というのに重きを置いた作品でもある。

 

ミステリそのものとしても、またそれと同時に描かれたテーマとしても、非常に考えさせられる作品だった。もしこの作品を、大人になる前、大人になった後で読むと印象が変わっていたはずだ。僕はちょうどその狭間で読んでしまったようなものなので、社会に出て大人になったのではないだろうかと考えた時に、再読してみたい。