『鹿の王』上と映画『鹿の王』前半の感想
【注意⚠️】
この感想には、映画『鹿の王』の内容のネタバレがあります。
また、映画鑑賞後から少し時間が経過しているため、シーンが前後する場合があります。
映画鑑賞直後の感想としては、上下巻2冊ある小説を2時間の映画で全て描ききるのは無理だったか、という少しばかり落胆するものだった。
例えば、物語の序盤でヴァンとユナが黒狼に噛まれるというのは共通しているのだが、2人が出会う場所が違っていた。
小説では厨房の竈の中で、母親と思われる女性が庇うような状態からユナは発見されるが、映画ではヴァンが閉じ込められている牢の前に振り落とされるような形で2人は出会う。
その後小説では、ヴァンが腹ごしらえをしながらこの先どうするべきか思案するシーンに入るのだが、映画ではここのシーンは変更され、ユナを保護したあとにようやく外の世界に出ている。
こういったように、映像化を行うにあたって地の文だけのシーン、ダレてしまうといったようなシーンはほとんどカットされているといっていいだろう。
また、物語の短縮を図るため、登場人物もかなりの数減らされている。その一人に、もう一人の主人公であるホッサルとともに登場するミラルがいる。
ホッサルの章でもかなりのシーンがカットや改変されていた。
小説ではヴァンの行方を追うため、跡追いの技術を持つサエとマコウカンが旅に出るが、映画出はサエが単独で任務にあたっていた。
これは少々個人的な感想なのだが、正直に言うとサエとマコウカンのビジュアルが、自分の想像していたものとは違っていた。
サエは「化粧っけのまるでない、落ち着いた感じの人だった。——どう見ても、凄腕の狩人には見えない。」(p.169)という文章や、後の湯場のシーンから温かみのある若い女性という印象を持っていた。
映画のサエは、いかにも仕事ができそうで冷たい女性という印象を受けた。まだ下巻を再読出来ていないため、本質は変化するのかもしれないが、第一印象だけで言えばこの差があった。
続いてマコウカンである。彼については、ホッサルにいつもついている従者である、という印象があったため、映画の中でいつの間にか別れてしまっていたのに驚いた。
また、ビジュアルに関しても、映画のマコウカンは少々マヌケな印象があって、個人的にはあまり好ましく思えなかった。
その後のストーリーは、小説の第3章まではほぼ同じような展開であると言っていいだろう。はっきりと変わってくるのは第4章からである。
小説では、御前狩りの最中に黒狼の襲撃に遭うが、映画では迂多瑠が既に噛まれた状態で登場した。
この展開からそれぞれ、小説は現在進行形で開発されていた新薬を投与することで危機を乗り越えたが、映画では「ヴァンの血液から血清を作る」という方針しかとられなかったため、新薬は作られず、ホッサルはヴァンを追い続けることになった。
ヴァンの章では、その後〈谺主〉のもとを訪れ、そこで黒狼の襲撃に遭ってユナが行方不明になる。だが、映画では世話になっていた村にいた時点でユナを攫われている。
〈谺主〉の場面が大幅にカットされているのは、映画を2時間以内に収めるためには仕方のなかったことであると納得している。
だが、実はこのシーンこそ映像で見たかったシーンだったため、そこがカットされてしまっていることは少々悲しかった。
この見たかったシーンというのが、ヴァンが〈谺主〉と出会う「森の腹の中」のことである。
文章だけで、ある程度はどういった風景なのかを想像はできるが、それでもこの美しいシーンを映像で見たかった。
最後に上巻ラストの第6章だが、ここは完全にカットされてしまっていると言っていいだろう。その証拠に、この章に登場する人物で、ホッサルとマコウカン以外の人物は映画にほとんど登場していない。
小説においては、この章があって小説の物語は完成するのだが、映画では展開が変わっているため、この章は必要ないとされたのであろう。
ここまで小説と映画の差を述べてきたが、映画だったからこそよかったシーンもいくつかある。
例えば、ヴァンを匿ってくれた村でのシーンである。
火を囲み、美味しいものを食べながら談笑し、ヴァンやユナが幸せそうにしているシーンでは、文章ではなく、目の前の画面で動いている人物が、本当に幸せそうに笑っているのを視覚で捉えることができた。
この時ばかりは、こちらまで幸せな気持ちになりながらも、徐々に迫りつつある追手のことを考え、この幸せな時間がいつまでもつづけばいいのにと願わざるを得なかった。
しかしながら、この場面は物語のまだ序盤なのである。
(『鹿の王』下巻と映画『鹿の王』後半の感想へとつづく。)
『紅蓮館の殺人 阿津川辰海』読了
※本文にはっきりと真相は書いていませんが、核心に迫る事実を書いております。気になる方は、ブラウザバック推奨です。
本作品はタイトルから推測できるように、綾辻行人先生の『十角館の殺人』の系譜にあたる作品だ。所謂クローズドサークルもので、かつ殺人事件の起こる舞台となるのが、何かしらの謂れがある館だ。
正直に白状すると、まだ駆け出しのミステリファンである僕が、この日本で一大ジャンルを誇っている館ものを語るのには少々おこがましいと自覚しているが、この作品の魅力を語るために目を瞑っていただきたい。
さて、この作品の魅力であるが、勿論評価されている本格ミステリという点が挙げられるが、その謎の掲示と解決に付け加え、探偵としての「生き方」が描かれているという点が挙げられる。
これはあくまで僕の持論の話だが、世の中に「名探偵」として名を挙げている人物には、必ず「信念」というものを持っている。例として最近よく読んでいる作品の探偵として、有栖川有栖作品より火村英生を挙げる。彼が探偵として真相を暴く理由は、「人を殺したいと思ったことがあるから」である。
前後の文で文章が成り立っていないように見えるが、何も間違ってはいない。彼の信念はこれなのである。しかし、彼はそれ以上のことは語らない。火村英生シリーズでは、作品の語り手かつワトスン役として、作者と同名の有栖川有栖という探偵作家が登場する。彼の推測を借りてこの信念を補強すると、自分は人を殺したいと思ったがその崖から引き返したのに対し、実際に人を殺してしまった犯人が許せないから、真相を暴くのではなかろうか、と言われている。
正直なところ、現状では「人を殺したいと思った」のそれ以上は本人の口から語られることはなく、語り手の推測のみだが、今回重要な点はそこではない。探偵が信念を持って真相を暴いているという点である。
随分と前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。『紅蓮館の殺人』では探偵役が葛城、ワトスン役兼語り手が田所というどちらも男子高校生だ。この中で、最も重要だと思っている設定が「高校生」であるという点だ。
大抵の推理小説では、探偵役というものは、純粋に探偵業を営んでいるものもいるが、本来の職業が大学准教授や占い師、書店員や職業ではないが現役大学生という場合がほとんどである。だが、これらに共通して言えることは、成人していること、自分の「生き方」を確定させた上での探偵行為を行っていることである。
しかし、今回の探偵役・葛城は高校生であり、おまけにまだ進路を考え始めたばかりの高校二年生である。彼の探偵能力というのは、生まれついた環境で生き抜いていくために自然と身についてしまったものではあるが、それはあくまで方法であり、生きるための方針ではない。探偵能力は生き抜くための術であり、それは探偵として生きるという方針ではないのだ。
彼には真相を見抜く能力はあるが、問題がそれを公表するのか否かというところにある。これは僕の推測ではあるが、彼が真相を公表するのはワトスン役・田所がいるからではなかろうか。
この作品の締めくくりで、葛城はある人と対峙する。それは田所の憧れの人間であり、この事件の重要人物である。その事実から遠慮したのか、葛城は成立しない推理を披露した。田所がかつて憧れた名探偵は、助手の期待を裏切った、私と変わらないと葛城に告げる。
ここで信念の話に戻るが、彼にとって探偵をする信念とはなんだったのだろうか。これは推測でしかないが、彼の信念は、ただ田所の期待に応えるという弱い信念ではなかったのだろうか。真相を暴くことは田所の期待に応えることになるが、それと同時にかつて憧れた名探偵に失望する真相に繋がってくるのだ。そう考えた葛城は、わざと成立しない推理を披露した。そうすれば田所は名探偵に失望しないで済むと彼が考えたからであろう。
しかしその行為は、探偵として褒められたものでは無いというのは推理小説好きの皆様ならお分かりいただけるだろう。名探偵とは、いついかなる時も真相を暴くもの、真実を曲げることなどあってはならないのだ。これは探偵としての「生き方」とは到底呼ぶことはできない。
その事実突きつけられた葛城は最後に言った、「僕には、謎を解くことしか、出来ないんです」。これは彼の叫びだ。探偵として生きようとしたものの、その資格がないと突きつけられた彼の叫び。探偵としての信念が弱い、探偵として生きるには信念が弱すぎる、けれども彼には真実を見抜く能力がある、それ故に探偵として生きるしかないのだ。
ここで彼らが「高校生」であるという話に戻る。専門の学科に通っている高校生はある程度自分の進路、つまり「生き方」というものがある程度定まっているものだが、進学校に通う彼らにとっては、進路というのは大学に進学する時に決めるものであろう。まだ「生き方」というのが定まっていないのだ。
長々と書いてしまったが、この作品は本格ミステリであると同時に、探偵の少年の青さを描いた作品である。自分の行先を決める術はあるが、そちらに歩いていくには心が追いついていない。この作品では「探偵」とされているが、将来という壁にぶち当たった高校生誰もが抱える問題を、本格ミステリとして描き出している。そして、探偵が真実を見抜くために持っている信念というのに重きを置いた作品でもある。
ミステリそのものとしても、またそれと同時に描かれたテーマとしても、非常に考えさせられる作品だった。もしこの作品を、大人になる前、大人になった後で読むと印象が変わっていたはずだ。僕はちょうどその狭間で読んでしまったようなものなので、社会に出て大人になったのではないだろうかと考えた時に、再読してみたい。
『午前0時のラジオ局』村山仁志
今日は久しぶりに新しい作家さんの登場です。
村山仁志先生は、僕の大好きな村山早紀先生のごきょうだいという事で、前々から本を出されていることは知っていましたが、読んだのはこの本が初めてです。
物語は、主人公・鴨川優が、テレビのアナウンサーからラジオに異動する所から始まります。
その先で陽気なディレクター・蓮池陽一と出会い、新番組の司会に抜擢されました。
そして、ラジオ番組の司会をしていく中で、優に不思議な出会いと出来事が起こります。
そして、陽一に隠された秘密とは……。
最初はどんな物語なのだろうと思いながら読んでいたのですが、思いがけない不思議で優しいお話にとても心が温まりました。
短編のような物語から構成されていて、僕の一番好きなお話は第六話なのですが、結構なネタバレになってしまうので内容は秘密です。
気になった方はぜひ読んでみてください、とても優しい物語なので。
ちょっとだけネタバレをしてしまうと、このお話には沢山の幽霊が出てきます。
ホラー要素と言えるほどのホラー小説ではないのですが、ちょこちょこ「えっ、あなたも幽霊なの!?」といった驚きがありました。
でもそれは、恨みからくる未練で幽霊になってしまったっていうのは殆どなくて、言いたかった事が言えなかった後悔から幽霊になってしまったので、呪われる、とかそういうのはないです。
なので、僕もちょっとだけ幽霊に会ってみたいな……とか思っちゃいました。
でも、会うって言ったって誰に会うんでしょう……。
最後に少しだけ余談。
先日から続いた引越し作業からようやく落ち着いて、今日は久々に読書をしました。
そして自分の好きなように本棚をメイキングして、ちょっと読書環境を整えて、家から出られないので久々にネットで本も買ってしまいました。うっかりですね。
そして結構5月発売予定だった本が、延期になっていますね、仕方の無いことですが。
これもまた、早く終息する事を祈るばかりです。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また明日お会いしましょう。
『コンビニたそがれ堂 花時計』村山早紀
久しぶりに村山早紀先生の作品から、『コンビニたそがれ堂』シリーズです。
本当は発売日に買いに行きたかったのですが、色々とバタバタしちゃって中々買いに行けなかった本です。
しかも、ちょうどコロナウイルスが猛威を奮い出した時期頃でしたからね。早くおさまってくれないかなぁ……。
さて、まずは感想ですが、ええ、とてもよかったです……。
前述の通り、時期が時期ですので悲しいニュースが多く、とても気が滅入っていました。
その中での、『コンビニたそがれ堂』の凄く凄く優しいお話でしたので、じわじわと涙が浮かんでくるのを感じるわけですよ……。
今回の作品は3編からなっており、共通のテーマとして『後悔』があります。
一言に『後悔』といっても色々あります。言えないまま永遠の別れを告げてしまった事からの後悔、何も出来なかった無力から来る後悔、人間生きていれば後悔の一つや二つはあるものです。後悔先に立たず。
けれども、同時に学習できるのも人間です。一度後悔してしまえば、二度と同じことをするまいと努力できます。後で後悔しないよう、今できることをやる。
言葉で言うのは簡単ですが、これがまぁ、中々難しいわけです。
実際僕もあの時ああしておけばよかった、という後悔がいくつもあります。しかし、後悔していつまでも後ろを向いていては前には進めません。言ってしまえば、僕達の住む世界には魔法なんてものはないので、自分で片をつけるしかないのです。
けれどもそう言われたところで、急にそんな事は出来ません。魔法はない、とは言いましたが、本はあります、魔法の物語はあります。
この物語は、今後悔しない為に努力をしようとする人々の背中を、そっと後押ししてくれる、そんな物語なのです。
ちょっと余談も混ざりますが、本日引越しが完了して、僕の新生活が始まります、といってもコロナウイルスの影響により、本格的に始まるのはもう少し先ですが。
これから先の生活で、後悔するようなことはしたくないので、自分を変えようと思っていました。
そんな時にこの物語を読んで、かなりの勇気を貰えました。
この先、何が待っているかわかりませんが、その中で後悔しないように、少し怖いけれど、、一歩でも二歩でも、ちょっとだけ前に進んで見ようと思います。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また明日お会いしましょう。
『怪盗探偵山猫 深紅の虎』神永学
とうとう山猫シリーズ最終巻『深紅の虎』です。
最終巻って言われると、凄く寂しい気持ちになって読み進める手が遅くなって、読み終えたあとも喪失感に襲われるのですが、この本だけは珍しくそんな事はなかったです。
それと、この表紙の山猫、凄くかっこいいですね!1番お気に入りの表紙です。
山猫のバーに出入りする勝村は、山猫の指示によりとある中堅企業に侵入することとなった。
山猫もしっかりと大金を頂いてきたのだが、残してきたはずの犯行声明が消されていた。
そして、山猫との共犯を疑われた勝村は、謎の人物達によって連れ去られ、その事実を知った霧島さくらはショックを受ける。
監禁されてしまった勝村を救出しに現れた山猫は、銃弾に倒れ、現場には爆弾が仕掛けられていたー。
山猫の過去を知るという人物から語られる、山猫の正体とは……。
いよいよ最終巻、山猫の過去について言及されるわけですが、少しだけネタバレを含むだけで、核心の部分だけは内緒です。
どういう結末を迎えるのか、是非とも自分の目で確かめてみてください。
さて、少しだけ内容に関するネタバレを含む話をしますので、それが嫌だって方は読み飛ばしていただけると幸いです。
作中で脈を確認するシーンがあるのですが、この確認というのが『死亡確認』なので、脈は止まっていなければなりません。
しかし、誤魔化さなければいけない状況なので、脈を止めてしまわないといけないわけです。
結果的には最後にこの事実は覆った疑惑になって終わるのですが、この『一時的に脈を止める』というトリックは昔から使われてきているものなので、様々な作品を読んだことがある方なら、何も疑わずに読み進めてしまうのではないでしょうか。
実際僕もその一人です。僕が知ったのは『出口ゼロ』という漫画ですが、『名探偵コナン』でも使われているようですね。
一番初めに、最終巻を読むと喪失感に襲われるが、この作品はそうはならなかったと書きましたが、その理由はこの作品の終わり方にあります。
僕が読んだことのあるシリーズもので、最終巻を迎えていない(まだ物語が続いている)ものが多いので、最終巻を読んだ経験が少なく、終わりの迎え方が偏っています。悲しい別れをしているものが大半なのです。
詳細は控えますが、この物語も別れで終わりますが、ただの別れではありません。正直無理矢理感があるのは否めませんが、とても山猫らしい幕引きを迎えています。
結末を迎えた後のこの世界がどんな風になっていくのか、想像が膨らみます。
最後にもう一つだけ余談。
『黒羊の挽歌』までは文庫本、『月下の三猿』からは単行本で購入したのですが、単行本四冊のカバー下がトランプの記号柄になっていると聞いて、残りの単行本も揃えてしまいました……。
元々気に入ったシリーズは単行本と文庫本両方購入してしまう人間なので、別にそれは大した問題ではないんですけどね。ただ場所をとるってだけで……。
さて、ノンストップで『怪盗探偵山猫』の感想を書いてきたわけですが、ここで一旦神永学先生作品以外の感想文をしばらく書いていきます。結構溜まっちゃってるしね。
次の神永学先生作品は何を書こうかな、『浮雲心霊奇譚』か『確率捜査官』か『天命探偵』か。
乞うご期待です。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また明日お会いしましょう。
『怪盗探偵山猫 月下の三猿』神永学
山猫シリーズ第五巻『月下の三猿』です。
三猿、というのはそのままの意味で『見ざる、聞かざる、言わざる』の事を指します。
三猿といえば日光東照宮ですが、またこのくだり話し始めちゃうと前置きがめちゃくちゃ長くなってしまうので、余談トークに回しますね。
招待を隠してバーのマスターとなっている山猫の元に、猿の娘と名乗る少女が現れた。
彼女は父親が残した"猿猴の月"というものを探して欲しい、と言ったが、バーを猿のお面をつけた謎の集団が襲った。
それと同時に謎の遺体が発見され、霧島さくらは現場に向かった。その遺体の手のひらには、猿の刺青が刻まれていた。
少女の言う"猿猴の月"とは一体何なのか、そして共通する猿は何者なのか……。
今回のお話では、前回に引き続き仮面の少女・黒崎みのりちゃんが登場します。
そして、犬井刑事の隠された過去が明らかに、何故彼がああいった人間になったのかも明らかになります。
石井さんの時といい、主人公ではない人間で、その人物を形成している過去を知る回って凄く好きなんですよね。
過去を知る回っていうか、他のキャラクターにもスポットライトが当てられる回というか。シリーズもの故の醍醐味ですね。
そしてちょっとした隠れ主役であるみのりちゃんとサツキちゃんの微笑ましい成長が見られる回でもあります。
少しだけネタバレになってしまいますが、彼女達二人は少し反社会的な父親をもっています。
子は親を選べませんから、子供が負い目を感じてしまうのは当然だと思います。
しかし、そんな境遇でも彼女達は父親のことを恨まず、懸命に生きる道を選びました。
自分は反社会的でありながらも、娘には真っ当な道を進んで欲しい、父親からのその愛を感じられたからです。
ただ、なんというか僕はそういった境遇では無いので、真の意味で理解することは不可能ですが、親のことを負い目に感じて自らを閉じ込めてしまうのはよくない、ということは何となくわかる気がします。
意味合いが違うとは思いますが、親子でも別々の人間、うーん……難しいなぁ……。
さて、最後にとっておいた日光東照宮のお話です。
最初に言っておきますが、行ったことは無いです。世界遺産の図鑑で見たきりです。一度行ってみたい世界遺産の一つではあるのですが。
日光東照宮といえば日光東照宮陽明門ですよ!そしてあの権現造の建物がなんとも言えぬ豪華さと絢爛さを放っているんですよ……。
そしてなんと言っても神仏習合だった信仰が、明治に入って神仏分離令によって別々になるわけです。その歴史とともに変わっていった信仰形態や、建物をじっくりと見てみたいものです。
最後にもう一つだけ余談。
本日(4月12日)、ようやく引越しが完了しました。
本を並べて自分好みに本棚を作ることが楽しみで仕方ないです。落ち着いたら本棚の写真も載せられたらいいなぁ……。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また明日お会いしましょう。
『怪盗探偵山猫 黒羊の挽歌』神永学
続いて山猫シリーズ第4巻『黒羊の挽歌』です。
山猫シリーズに登場する名前って動物モチーフ多いですよね。今回は『羊』です。
雑誌記者・勝村英男は、夜道を歩いている時に男たちに絡まれ、仮面をつけた謎の女に危機を救われる。
彼女が立ち去った後に落ちていた校章を拾った勝村は、その正体について探ることにした。
しかし、また謎の男によって手を引くように要求される。
また、同時期に女子高生の薬物中毒死事件が起こる。
これら全ての真相を探るべく、勝村は山猫の元へ事件を持ち込んだー。
勝村、戻ってこられないところまで足を踏み込んじゃってません……?いや、物語の進行上そうなるのは必然なんですけど、これ思いっきり勝村のほうから持ち込んでますよね、いいのか……。それに付き合う山猫も山猫ですが。
勝村と山猫の関係って、神永学先生の作品の中で、1番なんとも言えない不思議な関係ですよね。
友人、と言うには少し割り切ったような関係の気もするし、ビジネスパートナーというのもなんか違う気がするし……、友って言葉を使うことにはなりますが、悪友、戦友が近いのでしょうか。
僕は二人の不思議な関係が凄く好きなので、このシリーズが1番好きなんですよね……、やっぱり『怪盗山猫』のDVD買おうかな。
実はこの本を読んだ直後にTwitterで『自分のやったことに責任をもて』っていう言葉がとても好きだ、という呟きをしているのですが、この感想文の方では前の方に書いてしまってますね……。
時差で感想文を書くが故の弊害です。後から書く自分がネタ切れするって事に気づかないんですかね。
本が手元にあれば、斜め読みしながら少しネタを掘り出してくることもできるのですが、引越しのダンボールを閉じてしまったのでそれも叶いませんね……。
もう少しなにか書きたいって欲はあるのですが、こればかりは致し方ありません。大人しくここら辺で切りあげることにします。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また明日お会いしましょう。